広い海原。穏やかな波。

太陽が反射して煌めく水面。柔らかな月を映し出す鏡。

それらをこの手で守りたい。

その想いだけを胸に、生きてきたはずなのに。正しいことだったはずなのに。

気付けば、この広大な海に飲み込まれてしまいそうな位、一人きりだった。

未来を指し示していてくれたはずの朝が、照らす先は虚空ばかり。

優しかったはずの夜は、真っ暗で先が見えず。

守りたかったその海にさえ、そっぽを向かれているように感じる。

以前と同じはずの景色が、同じように見えないのは。

自分が変わってしまったからなのかもしれない。

どうして、こうなってしまったのだろう。

わからないままに今日も、歌を歌う。

この海を、守る歌を。

 

 

「セイレーン、ね。心優しき女神ってとこか…」

「キャプテン、本当に行くんですかぃ?」

「んだぁ、てめーら。怖気づいてんじゃねぇだろうな」

「まさか!俺たちを甘くみてもらっちゃ困りまさ。確認です、確認」

「わかってるっつーの。よろしく頼むぜ」

疑問を問いかけながら、出港準備は着々と進められている。

これまでも。

自分のどんな無茶な計画にだって絶対の信頼を寄せて着いて来てくれた船員達の事を、

今更疑えるはずもない。

怖気づくなんてとんでもない、確認してみただけ。

そんな船員達の気配に気付かないほど、短い付き合いでもない。

だから、怒ったような振りで、信頼を確かめる仲間の言葉に対して。

間髪いれず、にっと笑って返した返答に。

聞いていた仲間全員が、了承の叫びを返す。

 

 

海賊団ファルガ。

広大な海を根城に、強きを挫き、弱きを助ける。

義賊といえば、聞こえはいいが、実際のところそれを意図しているわけではなく。

船長である、キャプテン・ファルガの気分の赴くまま。

海を漂う、無頼者達の集まりであると言った方が、正しいことのように思えた。

ただ、数年前突然現れたこの海賊団が、またたく間にその名を知らしめたのには。

それなりの功績という名の実績がある。

権力者の自己満足のためだけに、繰り広げられていた、民衆にとっては何の利もない長く苦しい戦いを。

終わらせた。という、大きな大きな功績が。

無意味な戦いを続ける戦艦のど真ん中に、たった1隻で突如現れ。

敵も味方もなく。暴れ周り、すべてを無に帰すその姿は。

裁きを下す神の様であったとさえ、讃えられ。民衆の記憶に刻まれた。

戦闘が繰り広げられていたその場所に、ファルガの求める海の宝石が眠っているという伝説があったためで。

別に戦いを終わらせたい、そんな崇高な理由ではなかったことを、知る者は少ない。

実際、その場所から宝石などは見つからず。

伝説に踊らされたファルガの機嫌が、喜びに包まれる民衆たちとは裏腹にその後数週間にわたり、終始

悪かったことなど、傍にいた船員達以外にしかわからなかっただろう。

 

 

その機嫌を直したのが、今回の噂。

戦場の跡地となった場所を通る船が、ことごとく沈められている。

曰く。

その場所を通ろうとすると、波の音さえ消え。

だんだんと近づく、女の透き通るような歌声に聞きほれている間に。

気付くと、船は海の中へ飲まれていく。

その声を聞いて、生き残ったものはいない。

沈み行く船が最後に捉えるのは。美しい、海の悪魔の姿。海の宝石。

「ま、生き残った奴がいねぇってわりには。噂が具体的すぎて、ちょっと怪しいけどな」

「何か言いやしたか?キャプテン」

「いーや。準備はできたか?」

「いつでも出航出来ますぜ」

「よし、じゃあ俺の女神サマに会いに行くとするか!野郎ども、気合いれて行けよ!」

「アイアイアサー!」

 

 

何の変哲もない、広い海原のど真ん中。

あたりをつけた場所で海図を広げ、現在地を確認しようとしたその瞬間。

すべての音が、突然途切れた。

青い空には数羽の鳥が羽ばたき、船も変わらず波に揺られている。

それなのに。

まるで異空間に迷い込んだかのように、音のない世界がそこには広がっていた。

「まじかよ……おい、てめぇら。とりあえず、耳塞いで中入っとけ」

「キャプテン、もしかしてセイレーン対策それだけだってんじゃ……」

「うるせぇな。ほら、早く入った入った」

「キャプテンは、どうするんですかぃ」

「いいから、俺に任せとけって」

おざなりな対応策のみを船員に告げて、何の根拠もなさそうな台詞を紡ぐ。

それでも、きっと何とかなる。

船員達がそう信じてしまうのは、いつもそれで何とかなってしまっているからだ。

だから、みんなそんな通常信じられないような言葉にさえ、素直に従う。

ある者は耳を塞ぎながら、ある者はワインのコルクを耳栓代わりに詰め込みながら。

甲板の上にファルガ一人を残して、船室へ移動していく。

 

 

「さて、と。じゃあお目見えといきますか」

最後の一人が船内へ入ったのを確かめて、扉を閉め。

言葉と共に、振り返ったその先に。幻のように現れた、その姿に目を細める。

すべての船を沈める、悪魔。

その唇から零れる歌は、自分が奪う命への鎮魂歌のみ。

噂など、当てにならない。

目の前に現れたのは、今にも消え入りそうなか弱い娘。

その表情は、無表情に近い。

それでも、ファルガにはまるで泣きそうな、守ってあげたくなるような表情に見えた。

唯一、人あらざるものの証として。その耳元からは、海鳥の羽が伸びている。

娘が口を開いた途端、音のなくなった空間に、透き通った歌声が響く。

途端、一瞬頭の中が真っ白になった。

目の前の景色が歪む。

がくんっとその場に膝をつき、少しでも気を抜けば昏倒してしまうのではないかと思えるほど、意識が飛びそうになる。

ただ、その歌声を聞いただけなのに、こんな風になるなんて。

崩れ落ちそうになる身体を、気力で持ち直し。

必死で腕を伸ばして、娘の手に触れ、ぎゅっと握り締める。

思いもかけない行動だったのか、驚いたように目を見開き。

咄嗟にその手を振り解いた時には、その歌声は途切れていた。

声が聞こえなくなった途端、ファルガの身体が軽くなった。

その隙を見逃さず、すばやく立ち上がり。戸惑った様子を見せる『悪魔』をぎゅっと抱きしめた。

 

 

「……っ!」

「ふーん。抱き心地は普通の女と、あんまり変わんねぇな」

腕の中で固まるセイレーンの姿は、人間の娘の反応よりも純粋で。

とても脅威の存在であるとは思えない。

そう、つい先ほどの歌声の威力さえ知らなければ。

「は、離してっ」

「何だ、普通にしゃべれるんじゃねぇか。じゃあ、話は早い」

思わずといった雰囲気で、セイレーンから発せられた言葉は。人間と同じ言葉で。

これなら、話ができそうだ。

抱きしめた腕の力から逃れようとする、その力は。本当にか弱くて。

余計に、ぎゅっと力を込めて、くすりと笑った。

「……私が、怖くはないの?」

「それはないな。怖がる理由がねぇし」

「理由なら、あるでしょう。私は船を沈ませる、悪魔よ」

「俺の船は、沈んでねぇ」

「これから……沈むわ」

「沈まない」

きっぱりと言い切るファルガの言葉に。腕の中の身体が、驚いたようにびくりと強張る。

そして、諦めたように。わずかに抵抗を見せていたそれが、大人しくなった。

 

 

「どうして、そんな風に言い切れるの?」

「わかるさ。俺が、今から口説き落とすから」

「え?」

「一緒に来ないか?」

「な、に……」

「こんな広い海に、ひとりぼっちでいないで。俺と行こう」

「ありえないわ」

「何故?」

「何故って、そんなことわかりきっているでしょう。あなたは人間で、私は人間じゃない」

「それのどこに問題が?」

「ないわけないでしょう。私はずっと、人間を滅ぼしてきたのよ」

「それに理由がなかったなんて、俺は思わないけど」

海を荒らす者を、守るために裁くのは。悪なんかじゃない。

あの長い戦いの間、人間たちがどれだけこの海を汚してきたのか。想像に難くない。

これからは、一緒に。その役目を背負いたい。

続けられたファルガの言葉に、セイレーンの拒否の理由が詰まった。

自分が続けてきた、もう自分さえも見失ってしまっていた理由を。

わかってくれている人がいる。

自信を持って、肯定してくれる人がいる。

自分を決して、悪魔と呼ばない。

それは、変わってしまっていた景色を。取り戻させてくれる、魔法の言葉だった。

 

 

「キャプテンは、面食いですからねぇ。しかも、狙った獲物は逃さない」

「まぁ、諦めて一緒に来る他ないですぜ。お嬢さん」

「やっと身を固める決意したんですかぃ。お相手が普通の女じゃねぇところが、キャプテンらしいや」

「……てめぇら、中に入ってろって言ったろ」

背後から聞こえてくる船員達の言葉に、ファルガがゆっくりと首を後ろへまわす。

そこにはにやにやと、どうやってからかおうかと機会を伺っている船員達の姿があって。

ため息と共に、セイレーンの身体を自由にした。

逃げることも。攻撃するような歌を歌うことも。

もうきっとしないと、わかっていた。

それに船員達が、セイレーンを受け入れてくれるつもりなことも。

きっと、伝わっただろうから。

「……何なの、あなた達」

「俺達か?俺達は……」

『海賊団ファルガ!』

誇り高く、高らかに。

声を揃えて名乗る、男達の姿に。とうとうセイレーンの表情が綻ぶ。

それは、とても悪魔と呼ぶには相応しくない、穏やかなもので。

やはり、噂は噂でしかない事を。如実に示していた。

 

 

「じゃあ決まりな」

「でも……」

「拒否の言葉は、受け付けない」

にっと笑って、セイレーンの目の前に手を差し伸べる。

ずっと一人、優しくされたことのないセイレーンは。

戸惑ったように、その手をしばらく見つめた後。恐る恐る、それに手を伸ばしてきた。

か細い手が、ファルガのそれに触れた途端、ぎゅっと握り締める。

もう、決して一人にはしない。その決意を、込めて。

「私が、本当に一緒に行ってもいいんでしょうか」

「もちろん。俺がいいと言ってるんだから、いいに決まってる」

なぁ。と後ろを振り返れば、船員達のうなずく笑顔が溢れている。

その笑顔に囲まれたセイレーンに浮かんだ涙を、ファルガの指が掬う。

そしてその手元には、輝く涙型の宝石が残った。

海の宝石。

セイレーンの涙、それこそが捜し求めていた、ひとかけら。

「後悔、するのでは?」

「疑い深いな。大丈夫、俺は一度手に入れたものを手放すことはしない」

ぎゅっと、涙の宝石を握り締めて。笑うファルガの姿を、セイレーンはもう疑うことができなかった。

闇に覆われた世界に、光が差す。

 

 

「はい」

「よし!……まだ名前を聞いていなかったな。俺はファルガ、お前は?」

「セイレーン、と」

「それは名前じゃねぇだろ、お前だけの名を」

「私、だけの……?」

「あぁ、お前を呼ぶための名を知りたい」

「……セレス、ティ」

「セレスティか、うん。いい名だ」

「あ、ありがとうございます」

「じゃあセレスティ。歌を、聞かせてくれないか?」

「え?」

「俺たちの、明日のための歌」

「……はい、喜んで。ファルガ」

そして、広大な海に。透き通るような声が響き渡った。

呪いの歌ではなく、鎮魂歌ではなく。

これから、一緒にこの海を守ると言ってくれた。

この船を祝福する歌。

未来へ続く、歌が。

 

 

 

END

 

 

 

【反省文】
うわ、長……っ(笑)
でもでも、なにやらとても明るい話になりましたよ!(当社比)
本当は、このまま沈んでしまうような暗い感じになりかけたんですが。持ち直しました。
勝因は、主人公の性格があたしにしては珍しく明るかったトコロ(笑)
歌=セイレーン。しか浮かばない、自分の思考回路の単純さにびっくりしながら。
本来、あたしはこういう明るい話が好きなんだと再確認。自分で書くと、なかなかそうならないのが問題点(コラ)
ではでは、お付き合いありがとうございましたー。
【神月霞】